サッカー選手引退しました。

今シーズンをもって、サッカー選手を引退することにしました。

いやぁ〜、素晴らしいサッカー人生でした!!

今まで自分を応援し支えてくださった方、心からありがとうございました!!

「史上初のハーバード卒Jリーガーになる」という目標は残念ながら達成できませんでした。

本当は引退表明のときに、引退セレモニーが開かれるようなBigな選手になることが夢でしたが、それは叶いませんでした。

引退するにあたり、ここまで応援してくださった方に、自分が今までどんなサッカー人生を送り、なぜここで引退を決意し、そして今後何を目標に生きて行くかを直接伝えたかったので、拙い文章ですが、こうやって書かせていただいております。

幼少・小学時代

さて、自分のサッカー人生の原点まで遡ると、幼少時、寒い富山の地に住んでいた頃がスタート地点になります。

長男であった自分を父はよく外へ連れ出し、雪の積もった公園で砂の代わりに雪で小山を作り、その上にボールをセットし、ラグビーのように高く蹴り上げて遊んでいたのを、楽しかったからか、面白かったからか、今でも鮮明に覚えています。

小学校に上がるタイミングで名古屋に引っ越し、小学2年生のとき初めてサッカーのクラブチームに入りました。

初めて入ったチームは「ユアササッカークラブ」という、黄色と青の縦シマのユニフォームが有名な全国に展開しているキッズサッカースクールでした。

初めてのチームは、ユアササッカークラブ。ただ楽しく友達とサッカーに明け暮れていました。

3年生の頃になると、名古屋市にいくつかあったユアサチームから上手い選手を寄せ集めて、選抜チームを作る、という話になりました。

このときから「上手くなりたい、一番になりたい」と向上心を持つようになり、サッカーも楽しくなりました。

そうやってできたチームが「みずほFC」です。

みずほFCに入ってすぐ、小学生の同級生でユアサでも一緒だった竹野ゆうき君という人が、地元の強豪クラブで全国3位にもなった「愛知FC」に引き抜かれて行きました。

自分と学校もチームも同じで、サッカーの能力も同じだと思っていたのに、自分が選ばれず彼が選ばれたことが当時の自分には納得できず、悔しかったことを覚えています。

ただ、残されたみずほFCで加藤コーチはチームの最後尾から指揮をとるセンターバックというポジションと、キャプテンという役割を与えてくださいました。

責任を与えられたことにより、人一倍努力し、自分がチームを引っ張るという気持ちで試合に臨むことができるようになりました。

気付いたら小学校のサッカー部でもキャプテンを務めることになっており、この小学時代に「自分の意見を恐れずに述べる」という今の自分の基盤が築かれたと思っています。

そんな自分を形作るきっかけを与えてくださった加藤コーチには、心から感謝しています。

みずほFCと加藤コーチ。練習を真面目に取り組まないでいると「俺だって彼女と遊びでーんだよ! だから真剣に練習してくれ」と必死に嘆くコーチでした。感謝の気持ちでいっぱいです。

加藤コーチの下で大きく成長することができ、ただ集大成となる大会では「愛知FC」のBチームと対戦し、0-4で敗戦を喫し大泣きしたことは今でも覚えてます。

ただ、その大会の後、愛知FCから誘いの声がかかりました。とても嬉しかったです。

中学3年間は、その「愛知FC」でプレーしました。

中学時代

愛知FCでは初めて「勝って当たり前」という環境でプレーさせていただきました。

それまでとは違い、優勝というプレッシャーの中で大会に臨むなか、勝者のメンタリティーたるものが何かを学びました。

稲葉コーチの下でプレーした3年間は、身長が25cm伸びたことや、素晴らしいチームメイトに囲まれていたこともあり、たくさん成長できた3年間でした。

地元強豪チームであった愛知FC。左上のGKが、今でも大の仲良しの伊藤幹人くん笑

高校時代

2007年、中学3年生の7月に家族でNYに引っ越しました。

英語を全く話せませんでしたが、愛知FCで揉まれていたこともあってサッカーはアメリカンスタンダードでは、かなり上手いカテゴリーに入る選手になっていました。

9月から高校1年生としてScarsdale High Schoolという現地校に入学することが決まっていたのですが、9月頭からサッカー部のシーズンが開幕するということで、8月からサッカー部のセレクションが始まっていました。

そのセレクションに、なんと合格してしまいました。

アメリカでは1年生のことをFreshman(フレッシュマン)というのですが、Scarsdale High SchoolにおいてFreshmanが合格するのは何十年ぶりかの珍しいことのようでした。

それはどうやら相当の快挙であったらしく、初めてのアメリカの高校の入学式に参加すると、同級生は皆すでに自分のことを知っていました。

なにかと威勢の良いやつらが話しかけてくるのですが、英語なので何を言われてるのかさっぱりわかりませんでした。

ただ、そうやって放っておいても向こうから話しかけてくれるので、気付いたら友達がたくさんできていました。

おかげで、アメリカ生活は良いスタートダッシュを切ることができました。サッカーなしではあり得なかった話です。

キャプテンは黒人とユダヤ人、監督はイタリア人、ゲームメーカーはウルグアイ人、ポジション争いをしていたのは韓国人、センターバックは本職アイスホッケー選手、かたや自分はアメリカ1年目日本人。始めからそんな感じのチームでした。多様な文化が混在するチームにて、違いを違いとして受け入れることを学びました。

また、自分が点を入れるなどして活躍するたびに「あの日本人、すげぇぞ!」と騒いでくれました。

自分が活躍すればするほど、日本がクローズアップされ、自分が日本という国のイメージアップに役立っている、という気持ちになりました。

このときから「サッカーを通じて日本のためになにかをしたい、自分にはそれができる!」という夢を持つようになり、この夢は14歳の当時から23歳の今まで変わらず持っています。

日本では、同世代のプレーヤーたちが高校サッカーの舞台で、女子マネージャーに囲まれ、応援団から大きな声援をうけながらプレーし、青春しているのを見て羨ましく思っていましたが、一方Scarsdale High Schoolサッカー部の試合には、未成年者であるはずの同級生たちが酔っ払って現れ、汚い言葉を使いまくりながら、でも激しく、熱く、そして一体となってBoisterousに声援を送ってくれてました。

そして試合に勝っても負けても、その夜は決まって盛大にパーティーしました。

そんなアメリカ流高校サッカーも、スリルがあってものすごく楽しかったです。

個人的にもAll-Americanという全米で80人ほどしか選ばれない賞をいただき、今振り返ってみるとサッカー人生で一番ノっていたのはこのときだったかもしれません。

優勝したときの写真。ファンがピッチになだれ込んできました。このときの感動は一生忘れません。

また、サッカー部と並行してFC Westchesterというクラブチームにも所属していました。

FC Westchesterは愛知FC同様、地元の強豪クラブで、アメリカトップレベルのサッカーを経験することができました。

遠征でテキサスからフロリダ、ロサンゼルスまで色々なところへ行き、アメリカの強豪クラブと試合を重ねました。

そのたびに、アメリカという国の大きさを思い知らされました。

そうやって遠征を繰り返しているうちに、たまたま試合に来ていたスカウトの目に止まり、ハーバード大学入学へのきっかけをつかむこともできました。

それまでプレーしていたCBからFWに転向したチームでした。アメリカでの荒削りのプレーここで習得しました。

NYでの最終年は、Copa NYCというNY在住の人だけで行われるミニ・ワールドカップのような大会に、NY日本代表として出場する機会にも恵まれました。

サッカーというスポーツを通じて、初めて世代を超えた人間関係を築くことができ、今ではアメリカと日本のサッカー界の橋渡し役となっている中村武彦さんや、ガーナで日本人として初めて監督を務めた八橋健一さん、ほかにも岩下ゆうくんや浜田ゆうやくんなど、素晴らしい兄貴分とチームメートになり、小さいながら日本のために戦う喜びを味わうことができました。

NY日本代表チーム。極寒の中練習した日々は忘れません。たくさんの兄貴分に恵まれ、幸せでした。今も親交が続いている選手が多いです。

大学時代

そして2011年、ハーバード大学に入学しました。

ハーバード大学サッカー部は、立派なロッカールームを持ち、天然芝2面と人工芝1面を持っており、アスリート専用のジムやトレーナールーム、プールもあるなど、プロサッカークラブのような環境を持っています。

遠征費や練習着はタダでしたし、練習後は洗濯までしてくれました。

そのような最高の環境の中で、4年間もプレーできました。

最初の2年間は2勝ずつしかすることができず、最弱チームだったのですが、2年生のあとに監督が変わると、一転常勝チームに様変わりしました。

最弱チームが最強チームに変貌する最中にいて、強い組織はなぜ強いのか、を内側から学ぶことができました。

これを学ぶことができたのは、今後世の中で様々な会社、組織と関わっていくなかで、とても貴重な経験になったと思います。

素晴らしい仲間に恵まれた4年間でした。一生ものです。

そして、何よりハーバード大学サッカー部に所属できたことで、様々な道へのドアが開かれました。

例えば、Jリーグを創立した、日本サッカー協会キャプテンの川淵三郎さんに19歳のとき会うことができました。

これは今年とった川淵さんとの写真

川淵さんに「将来日本サッカー界が世界に誇れるような産業になるように貢献したいです!」と話したら

「俺がJリーグを作れたのは、プロとしての経験があったからだ。プロとしてプレーし日本サッカーの課題をたくさん見てきたから、改革することができた。お前もまだサッカーしてるなら、一度プロを目指してみろ」

と言われました。

その2ヶ月後「夢を語れ」というラーメン屋で働き始めたこともあり、遅いですが19歳になって初めて「プロサッカー選手」というキャリアを意識するようになりました。

自分より上手い選手がたくさん周りにいるなか「プロになりたい!」なんて恥ずかしくて到底言うことができなかった自分に「自分の限界を作っているのは他でもない自分自身である」と教えてくれたのは「夢を語れ」の店長、西岡津世志さんでした。

そして、大学卒業が迫り、同級生が優良企業に就職していくなか、一か八かでプロに挑戦してみたら…なんでもやってみるもんです…シアトルのはずれにあるKitsap Pumasというチームと契約に至りました。

大学卒業後、Kitsap、Jリーグクラブ探し時代

2015年、ハーバード大学を卒業した直後、すぐKitsap Pumasに移りプロサッカー選手としてのキャリアを歩み始めることができました。

最初で最期のプロチームはWA州にあるKitsap Pumasというチームでした。結局自分が最期に選手登録したチームとなりました。

Kitsap PumasはPDLといって、アメリカでいうと3部、4部相当のリーグのチームなのですが、少しでしたがサッカーでお金をもらい生計を立てていくことができたのは、リアルでうれしかったです。

シーズン途中には、MLS(日本でいうJ1)のSeattle SoundersというチームのBチームである、Seattle Sounders2にレンタル移籍するなど、ある程度の成績を残すことができました。

Kitsap Pumasでのシーズンを終えると、いよいよJリーガーになるべく、2015年8月、8年ぶりに本帰国しました。

以前、「夢を語れ」にて、「ハーバード卒Jリーガーになりたい」と夢を語っていると、そのラーメン屋の常連さんが小林大悟選手という、ボストンにあるNew England Revolutionsというチームでプレーしていた当時唯一の日本人の選手とつなげてくれたことがありました。

Jリーグに挑戦するにあたって、大悟選手に相談してみたら、なんと遠藤さんという彼の代理人を紹介してくれました。

遠藤さんのおかげで、大した経歴もない自分は5つものJクラブ(横浜FC、Vファーレン長崎、カターレ富山、ブラウブリッツ秋田、ガイナーレ鳥取)のセレクションを受けることができました。

特に、横浜FCではあのキングカズこと、三浦知良選手と一緒にサッカーをする機会に恵まれました。

カズさんは15歳から24歳までブラジルで過ごした自身の姿に重なったのか、自分に興味を示してくださり、ディナーにまで連れて行ってくれました。

結局5つとも契約まで至らず、諦めかけていたところ、カズさんが藤枝MYFCというクラブを紹介してくださいました。

そのクラブのセレクションに参加してみたところ、またしても選手としては認められなかったのですが、藤枝MYFCの社長が自分に興味を示してくださり「史上初のハーバードJリーガーが出るなら、ぜひうちのクラブからがいい。練習生として入団して、うちのクラブで鍛えてみないか?その代わり選手としての収入がないから、空いてる時間でうちのクラブで働いてみないか?」とオファーをいただきました。

わらにもすがる思いで最期に掴んだチャンス、練習生という立場に悩んだものの、自分の中で1年勝負と決めて、今年の3月からJ3の藤枝MYFCというJリーグクラブに半練習生、半クラブ社員として移りました。

藤枝MYFC

現在僕は、この藤枝MYFCというJリーグクラブに、今年3月からお世話になっております。

朝7時前に起きて1番に練習場につき、下っ端なのでボールの空気入れをした後、全体練習が始まる前に1時間ほど練習し、全体練習が終わったら残る選手と自主練し、終わったら昼ごはんと昼寝を挟んで14時~18時まで4時間フロントスタッフとしてクラブ運営の仕事をし、19時からは地元の藤枝市役所サッカー部の練習に参加し、夜ご飯を食べて寝る。

ルームメイトは田中アシスタントコーチ。

週1でサッカーの試合分析をし、レポートを書く。

市役所サッカー部の練習が休みの日は、藤枝MYFCが持っている女子チームの練習に男1人混じって練習する。

そんな、サッカー尽くしの毎日を9ヶ月休まず送ってきました。

練習生という微妙な立場でしたが、皆とても親切に接してくれました。サッカー人生最後に所属したチームは、みんなレベルが高く、それまでの自分がサッカー感が一新されました。この年は7位で終わりましたが、得点数はリーグ2位。その代わり失点数も多く、見ててハラハラドキドキする試合が多く、観戦していて楽しい試合ばかりでした。

藤枝MYFCではまず、Jリーガーと毎日一緒に練習することによって、サッカーに対する全く新しい価値観を得ることができました。

そして、午前は現場、午後はフロント、夜は女子や地元社会人チーム、週末はホームゲーム運営でサポーターやボランティア、スポンサーの方々と密接に知り合うことができ、その結果様々な立場のクラブ関係者と関わることでサッカーというスポーツを多角的に見ることができ、とても価値ある経験を積むことができました。

将来、日本サッカー界に戻ってビジネスしたい、と考えている自分にとって、こうして23歳の時に日本サッカー界のあらゆる環境を知ることができたのは、掛け替えのない大切な経験になったと思います。

ただ、肝心の選手としてのサッカーの方はと言いますと、今年1年で大きく成長できたという自負はあるものの、そもそものレベルに大きな開きがあったこともあり、1年たっても契約選手になってJリーガーの仲間入りを果たすことはどうやら難しそうでした。

あと1年、練習生としてクラブに留まり、さらなる上達を目指し練習する、という選択肢もありました。

しかし、様々な方からのアドバイスもいただきながら、2,3ヶ月ほどゆっくり悩み抜いた結果、「Jリーガーになる」という夢は諦めて、次の人生を歩むことをここで決断しました。

引退を決断した理由

先週、400mハードル世界陸上で銅メダルを獲得したこともある為末大さんの「諦める力」という本を読みました。

その本に、

“「目的」は諦めちゃいけないけど、「手段」は諦めてもいい。
「目的」を達成するための「手段」は、自分に最適なものを「選択」していけばいい。
「諦める」とは、自分の置かれた現状を「明らめ」て、戦略的に「選択」することをいう。”

と書いてありました。

為末さんにとっての「目的」は、世界陸上で優勝し、かつてどの日本人もやったことがないことを成し遂げて、世界にインパクトを与えること。

そのための「手段」として、花形競技種目の100m走を走っていましたが、途中で「諦めて」、勝てる見込みのあった400mハードルを「選択」し、競技変更したそうです。

結果、金メダルとまではいかなかったものの、銅メダル獲得までにいたり、世の中に十分すぎるほどのインパクトを残しました。

僕にとっての「目的」は、「日本サッカー界を世界に誇れるような産業にする」ことです。

それが、14歳で初めて渡米したときから、現在まで変わらず胸に抱いている「夢」です。

「史上初ハーバード卒Jリーガーになる」というのは、僕にとってはその目的を達成するための「手段」でした。

川淵さんに出会い、本気でJリーガーを目指そうと思ったのも、言って見れば「日本サッカー界を世界に誇れる産業にする」という夢を達成するための伏線でした。

史上初ハーバード卒Jリーガーになることができたら、

    • Jリーガーとしての視点から日本サッカー界を見る経験を積むことによって、日本サッカー界の課題を浮き彫りにすることができるかもしれない
    • Jリーガーになれば、将来ビジネスパートナーとなり得るような様々な人とコネクションを築くことができるかもしれない
    • 将来サッカー界でビジネスをするにあたって、知名度が上がり発言力が増すかもしれない
    • ハーバード卒Jリーガーになることで、日本の子供たちに文武両道は可能だ、と夢を与え、日本の教育に好影響を与えることができるかもしれない
    • というか、一躍人気者になってモテるかもしれない

などの理由から(最後は半分冗談ですが)、将来の夢を達成するためへの近道になるかもしれない、と考えていました。

もちろん、為末さんと同じく、誰も成し遂げたことがないことを成し遂げる、という夢にロマンを感じてもいました。

しかし、1年間Jリーガー達と毎日サッカーをしてきて、自分はどうやら思ったほどサッカーが上手くない、ということに気付きました。

そう気付いたとき、それでもJリーガーになる、ということに固執してこだわり続けるのか、悩みました。

そこで、ふと冷静になって周りを見渡すと、別にJリーガーとしてのプレー経験がなくても、日本サッカー界に大きな影響力を持っている人はたくさんいました。

例えば、今のJリーグチェアマンの村井満さんなんかは、サッカーは高校までしかプレーしてません。

そう考えたときに、天職でもないサッカー選手として勝負し続けるより、他の「手段」で自分なりに日本サッカー界の発展に貢献できる方法があるんじゃないか、と考えるようになりました。

もちろん、多くの人に「Jリーガーになる!」と宣言していましたし、もしなれたときのメリットを考えると、とても諦めるのがもったいない夢ではあったのですが、一度しかない人生、自分の「夢」を達成するために、ここで1つ大きな決断をすることにしました!

今後のことについて

Jリーガーを目指す道から引退し、次に何を目指すかは今のところ決まっていません。

今決まっているのは、自分が30後半、40代くらいになったときは、日本のサッカー界のために何か大きな仕事をしていたい、ということだけです。

その夢も、もしかしたら近い将来変わってしまうかもしれませんが、まあそれはそうなったときで、別に夢が変わるのは悪いことではないと思っています。

ただ、次のステップを歩むにあたり、3つだけ念頭に置いていることがあります。

    1. 「過ちて改めざる、是を過ちと謂う」という言葉が、孔子の論語に出てきます。要するに、1度目の失敗は失敗ではありませんが、同じ過ちを2回と繰り返すのは賢くないですよ、ということです。僕のサッカー人生終盤、藤枝MYFCにて自分が全く通用しなかった理由は、「基礎技術の欠陥」にあったと思います。自分はボールを扱う基礎技術をしっかり練習してこなかったので、今でもミスが多いですし、プレーするときに脳みその70%くらいは多分ボールに意識を集中していたと思います。

      しかし、一緒にプレーしていた藤枝MYFCの選手たちは基礎技術がしっかりしていたので、ボールにはきっと脳の20%くらいしか意識を傾けていませんでした。

      それでは、彼らたちは何を見ていたかというと、残りの10人の味方と、11人の敵を見ながら、頭を使いながらサッカーをしていたのです。

      だから、相手と駆け引きをし、全体的にサッカーをとらえ、創造性溢れるプレーができていたのだと思います。

      21人とサッカーをしている選手と、かたやボールとサッカーをしている自分。

      その差は歴然としていました。

      この経験を通して、基礎がしっかりしていないと、そもそも創造性を持つこともできない、ということに気付きました。

      これは、きっとサッカーだけでなく、ビジネスにおいても同じだと思います。

      ですので、社会人になってまず初めは、ビジネスをするうえでの基礎をしっかり学んで自分のベースを作っていきたいと思います。

      それでは、そもそも社会人としての基礎はなんなのか?という話になってしまいますが、今の自分には明確な答えはありません。

      ただ、一流の人が集まるところに自分の身を置けば、おのずと基礎能力は引き上げられる、と考えております。

      1度しかない人生で、また基礎がしっかりしていなかったばかりに成功しない、という同じ失敗をおかしたくないです。

      ですので、何をするにしろ、一流の人の下で働き、一流の仲間と切磋琢磨できるような、そんな環境に自分の身を置くことに優先順位をおきたいと思ってます。

    1. 中西哲生さんという、元Jリーガーで今は長友選手や永里選手、最近話題のバルサカンテラ出身の久保選手の専属サッカーコーチとして活躍したり、スポーツジャーナリストとしてサンデーモーニングやラジオに出演したりと、サッカーに留まらず幅広い活動をされている方がいます。有名な方なので、皆さん一度はお目にかかったことがあると思います。実は彼、愛知FCのOBでもあり、ルームメイトであった先述の田中コーチに紹介してもらい先日お会いしてきたのですが、彼の話を聞いていると、それはそれは気宇壮大なもので圧倒されてしまいました。

      てつさんの夢は「日本がW杯を優勝することによって、日本の文化を世界に今一度広め、より平和な世界を築くこと。」W杯を優勝したその後の世界まで明確に見えていることが、自分にとって強烈でした。

      彼に人生相談してみたところ、

      「サッカーを好きだけどピアノには興味がない人、ピアノを好きだけどサッカーには興味がない人、その両方の人の気持ちが理解できるようにならなければいけない。新聞に40ページあるとしたら、そのうちスポーツ欄は多くて3ページ。そのうちサッカーはだいたい30-40%。その社会の全体の5%しか知らないでサッカーを見るのと、社会全体の流れを把握してサッカーを見るのでは、見える物も感じ方も全然違う。富士山が高いのは、裾が広いからである。君も大きな山を登りたいなら、まずは裾を広げることが大事だよ。サッカーを進化させたいなら、サッカーとは正反対のところにいる人の気持ちもわかってあげて、巻き込んでいけるようにならなければいけないよ。」

      と語ってくださいました。

      そんな話を聞いて、なるほどなるほど、と思いながら静岡に帰ってきた翌日は晴天で、冬で空気も澄んでいたのか、いつもより富士山が綺麗に見えました。

      そして、富士山を改めて見ると、確かに裾はかなり広かったです。

      もともと、自分はサッカーだけの人間に終わりたくない、と思って学問にも励んできたのですが、今回確信しました。

      将来サッカー界で活躍するために、敢えてサッカー界からは距離を一度置こうと、考えています。

      ですので、次に社会人として歩み出す1歩目は、サッカーとは全然関係ないところにあるかもしれません。

  1. 3つ目は、「感動を共有できる瞬間」に関われる業界にいたい、ということです。この前、たまたま自分が大学4年生のときに少しだけプレーさせていただいた、BostonにあるBoston Soccer Bakaという社会人日本人サッカーチームのBlogに自分が寄せた投稿を見つけました。僕にサッカーを続けさせるもの自分で書いたはずのBlogポストを読み直して、結構本質をついてるなーなど過去の自分に割と感心しながら(笑)、改めて再発見したのですが、自分がここまでサッカーを20年ほど続けてこられたのは、試合に勝った時、得点を決めた時などの、あの頭が真っ白になって、とにかく無我夢中に走り出す、一体感のある感動の瞬間に魅せられていたからでした。

    その瞬間の感動のために、毎日コツコツと練習に励めたわけで、きっと自分が人生において一番幸せな時は、より多くの人と、とてつもない感動を共有できた時です。

    次の仕事が何になるかわかりませんが、チームでなにかとてつもないことを成し遂げる、そして皆で感動を共有する、それができる環境に身をおきたいです。

最後に…

とてもとても長くなってしまいましたが、書いていてとても自分のために良い振り返りとなりましたので、書いて自己満足しております(笑)。

最後になりましたが、ここまで自分のサッカー人生に関わってくれた全ての方に今一度お礼を言わせてください。

ありがとうございました!!!

ユアササッカースクールでは、純粋にスポーツを楽しむことと、向上心を持つことを

みずほFCでは、ライバルを持つこと、責任がリーダーシップを産み出すことを

愛知FCでは、勝利のプレッシャーの中で戦っていくことを

Scarsdale High School サッカー部では、サッカーを通じてアメリカの多様な文化を、そして日本のサッカー界のために仕事をしたいという夢を

FC Westchesterでは、アメリカという国の底力の強大さを

Harvard サッカー部では、強いチームの作り方を

NY日本代表とBos Bakaでは、サッカーというスポーツを通じて社会人のコミュニティーを築けることを、

Kitsap Pumasでは、プロサッカー選手として生活していくことの厳しさを

そして藤枝MYFCでは、選手以外の視点からのサッカーの価値観と、1つ2つ上のレベルのサッカーを

それぞれ教えていただきました。

そして、その全てのステージにおいて、素晴らしい仲間と出会えました。

今自分がお世話になっている方は、たまたま学校でクラスが同じになった人などを除けば、ほとんどサッカーから派生したつながりばかりです。

サッカーを真剣に続けてきたから、本当に多くの出会いに恵まれました。

皆の存在は、自分にとって一番の宝物です。

そして最後に、サッカーは「夢を追いかける」というライフスタイルを教えてくれました。

大きな夢・目標を掲げ、それに向かって日々努力する。

そして、掲げる夢は大きければ、大きいほどいい。

今回も、はなからJリーガーになんてなれるわけがない、と実は自分が一番思ってました。

でもとりあえず宣言して、頑張ってみたところ、叶わなかったものの、最後はJリーガーと毎日練習する日々を過ごせましたし、おまけに川淵さんやキングカズ、中西哲生さんといった方々と知り合うこともできました。

ですので、今後も夢は大きく生きていきたいと思います。

最後の最後に、高い学費を払ってもらっておきながら、ろくに稼ぐこともせず夢を追いかける自分をいつもサポートしてくれた家族のみんな、ありがとう!

温かく見守ってくれたおかげで、こんなに素晴らしいサッカー人生を送ることができました!!!

これからも、僕に与えてくれた名前のように、

寛大、そして寛容な心をもって、そして寛(くつろ)ぎながら、適当に「生」きていこうと思います!!

今後もよろしく!!!

小林寛生

5 Comments

  1. 決断、おめでとう。

    サッカーと言わず、スポーツ全般を
    ビジネスとして引き上げてください(^^)

    次のステージ期待してます!

  2. ニューヨーク時代から、ひろき君はみんなの憧れ。
    出来ない扉をいくつも開けて来た人。
    人を引き付けてやまない天真爛漫な人。
    かっこいい、面倒見の良い兄貴。
    これからも私たちをワクワクさせてね。

    1. いつも応援してくださりありがとうございます!
      これからもそのような存在でいられるよう、いつも通り頑張っていきます!

  3. ひろき君の活躍をお祈りしています。
    身体には気をつけて下さいね。

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