昨日、勇次とGood Bye青春しました。
勇次は自分が静岡にいた9ヶ月間、サッカーチームも、職場も、寝所も一緒の、1日24時間を9ヶ月連続で毎日ともに過ごした僕のルームメイトでした。
勇次は、尾崎豊の”17歳の地図”を流しては、
「この曲が17歳のやつに書けるかふつう???」
と毎回同じ言葉を発し、秋になれば外に出るたび
「あ〜〜〜〜〜金木犀のいい香りがする!」
とこれまた毎回つぶやく、変な人でした。
その2つのセリフは、少なく見積もっても10回は聞きました。
勇次が寝る時は、「おやすみなさい」ではなく、なぜか毎回「Good Bye 青春」と言ってくれました。
最初は、何言ってるんだこの人は? と思いましたが、あとで長渕剛のアルバムを聴いていると”Good Bye青春”という曲が流れてきて、あ、長渕の真似をしていたんだ。とそのとき初めて知りました。
気づいたら自分も尾崎豊と長渕剛を好きになり、最後の3ヶ月ほどは2人でドライブしながら熱唱できるようになりました。
熱唱といえば、勇次は英語を話せないくせに、The BeatlesとかBackstreet Boysを流すと、だいたい全部歌えました。
きっと英語を話せないなりに、一所懸命に歌詞を調べて、覚えていたんだと思います。
それでもたまに拙い英語で話しかけてきたと思うと、決まって最後に”Are You Alright?”と聞いてくる、やっぱり変な人でした。
勇次は、出会ってすぐ五味川純平の「人間の條件」を、これは人生の課題図書だ、といって勧めてきました。
でもそのわりには、「女性に権利なんてない!」
とか言い放つ、アンチ・センチメンタル・ヒューマニストでした。
しかし、これがなぜか女性にはモテて、しょっちゅう女から電話がかかってきたり、京都から彼女でもない子が会いに来たりもしました。
勇次は、別段たいしたイケメンでもなく、服を脱ぐとだらしない腹をしているくせに、女性だけでなく男性からもモテました。
多くの歴史小説を読んできた勇次には教養があり、勇次が話し始めるといつも多くの人が集まってきて、勇次の話に魅了されていました。
また、学生時代、多くの飲食店のバイトを掛け持ちしていた勇次が、たまに腕によりをかけて作る料理は絶品でした。
男のくせに盛り付けにこだわり、刺身用の皿をわざわざ買ってきた夜もありました。
一度、勇次がつくった”揚げ出し豆腐の豚バラ肉巻き”みたいな料理は、そとカリっなかフワっ、で感動しました。
そんな料理の腕のよい勇次は、確かに格好よかったです。
なのに、1人になるとすぐ手を抜いて、ご飯をいつもウィンナー5本と白飯3合、或いはカップラーメンで済ましていました。
それじゃ余計に太るので、いつもサラダを作っては分け与えていました。
「コバのサラダは世界一うまい!」 と、これまたお決まりのセリフを約束事のように言って食べてくれるものの、「これは女こどもが食うもんだ」といって、最後までアボカドだけは食べてくれませんでした。
女性からも男性からもモテる。僕は勇次ほど周りの人間から慕われ、頼られる人を、それまで見たことがありませんでした。
ルームメイトの僕は、ちょっと嫉妬したりしました。
でも、よく考えてみたらそんな勇次を一番慕っていたのは僕でした。
1年前日本に本帰国し、Jリーガーになる夢を叶えるべく、Jクラブのトライアウトを受け続けた僕は、5つ連続で落とされてしまいました。
6個目のクラブで、ようやくチャンスを掴んだものの、待遇は「練習生」としての入団で、契約は勝ち取ることができませんでした。
ゆかりのない静岡まで行って、練習生という立場でサッカーを1年続けようか、やめようか。
東京の実家で迷っているときに、練習参加のとき一回だけ会った勇次に「迷ったら電話してこいよ」と言われたことを思い出し、この人よく知らないけど連絡してみようと思って電話したら
「夢は大きくてもいいんじゃないか? 俺も、笑われると分かってるけど、本気でチャンピオンズリーグを優勝するつもりでおるし」
って言っていたのを今でも良く覚えています。
ギリギリまで迷ったあげく、結局残って続けることに決めたのも、このなにかと愉快な人とルームメイトになる、ということが少し楽しみだったからでした。
サッカーが1年でかなり上手くなれたのも、勇次のサッカー戦術眼が確かなもので、フィールドでも、家でも、熱心にサッカーのいろはを教えてくれたからでした。
選手として契約してもらえず、練習生という中途半端な立場でチームと関わることになり、選手との距離をあまり縮められずにいた自分が孤独を感じずに毎日を楽しく過ごすことができたのも、勇次が毎日そばにいてくれたからでした。
そんな勇次と僕は、喧嘩をすることもありました。
喧嘩というか、勇次はいつも急に機嫌を損ねるので自分は理解に苦しみました。
あれは7月か8月、暑かった頃、たまたまチャンスが回ってきた大事な練習で僕は恥ずかしいことに熱中症を起こしてしまいました。
自分が情けなく、しょぼんと家に帰ると、慰めてくれると思っていた勇次が口をきいてくれませんでした。
そのあと2、3日経っても話してくれず、僕はなにか勇次に悪いことをしたか、ずっと考えていました。
4日経って、ようやく話してみると
「お前は何のためにここに1年来て闘っているんだ。最近サッカーと関係ない用事で東京に行ってみたり、コンビニ弁当ばっかの不健康でサッカー中心じゃない生活を送ってたからこうなったんちゃうか?お前にどれだけの人が期待してるか、考えてみろよ」
って言われました。
勇次は僕の成功を心から願ってくれているんだと、叱られているのに嬉しくなりました。
でもカップラーメンとウィンナーで生活している勇次にそんなことを言われるのも、よく考えてみたら少し滑稽でした。
シーズンが終わり、勇次がこのクラブを離れる決断をしました。
僕が予想していた通り、多くの人間が勇次を引き留めようとしました。
でも、頑固で己を曲げない勇次は、自分の道を自分で選んで歩んで行く決意をしました。
勇次のことなら、きっとどこでも愛され、上手くやって行くんだと思います。
勇次の退団が決まってから、2人で用があって東京へ1泊2日の旅に勇次の運転で行ってきました。
サンデーモーニングの中西哲生さんに会い、JFA名誉会長の川淵さんに会い、世界で活躍される代理人に会い、勇次の親友を紹介され、自分も親友と母親を紹介し、スタ丼を食って帰る。
とても中身の濃い、有意義な旅になりました。
勇次とは静岡で毎日一緒にいるのに、東京への旅の途中もずっと一緒でした。
ここまで来るとなんか気持ち悪くもありますが、こんなに一緒にいても飽きずに、楽しくいられるのは勇次くらいでした。
楽しくもありましたし、何より勇次からは本当に毎日多くのことを学べました。
勇次と僕は、なんだか正反対の人間でした。
僕が数学と統計学を専攻した理系なら、勇次は日本文学と歴史に精通した文系で、パソコンとかは使いこなせていませんでした。
でも代わりに、僕に美しい日本語の表現を教えてくれ、「竜馬が行く」に興味をもたせてくれました。
僕がハーバードで勉強したリベラルでアメリカンなやつなら、勇次は落語を愛し、東京に帰るたび靖国参拝にいくジャパニーズなやつでした。
僕は別段フェミニストでもないのに、女性の権利にたいして超保守的な考えを持つ勇次となんども口論しました。
僕が賭け事をしない慎重派なら、勇次は博打に一喜一憂するギャンブラーでした。
そんな勇次を僕はいつも批判していましたが、それでも勝つと”シンデレラ・タイム”とか言って、いつもおごってくれました。
僕もつられて一度だけ賭け事してみましたが、結局負けました。勇次曰く、僕には博打の神様がついていないとのことでした。
もう二度としません。
僕が盛り付けが適当な健康食を作るのであれば、勇次は盛り付けにこだわった不健康食ばっか食ってました。
僕と勇次には多くの相違点があり、でもだからこそ学びがあり、一緒にいて楽しい人でした。
そんな僕と勇次に唯一共通していたこと、それは2人ともサッカーが下手だったこと、そして2人ともロマンに憧れていたことでした。
勇次は去り際に、手紙を残していきました。
予想だにしていなかった手紙を読み、別に泣きはしなかったけど、手紙の入った封筒には「将来の日本サッカー協会会長へ」、裏には「将来の日本代表監督より」と走り書きしてありました。
坂本龍馬のように、ロマンに生きる男になりたいよな。
そう語り合った日を思い出しました。
手紙なんか渡され、読んではい、おしまい。じゃ格好がつかないので、こちらも書いて送ってやろうかと思ったけど、住所もないような生活を勇次はしばらく送ることになりそうなので、それはやめました。
代わりにこうやってブログに想いを綴っています。
でも、このブログを勇次が目にする日はついにやってこないでしょう。
どこかひねくれている勇次は、隣で僕がブログを書いているのを知っていながら、ついに最後まで僕のブログの見つけ方を聞いてきませんでした。
でも、今後いつか、遠い将来、ふとしたことがきっかけで勇次がこのブログを読んでくれて、少しでも今日の僕のこの、勇次とともに過ごせた倖せ、感謝が伝わるといいです。
勇次!そんな日がきたら、また僕と一緒に勇次を唄おう!
勇次 あのときの 空を忘れちゃいないかい
勇次 あのときの エネルギッシュなお前が欲しい
帰りたい 帰れない 青春と呼ばれた日々に
戻りたい 戻れない 狭間で叫ぶ俺がここにいる
それでは、Good Bye 青春